趣味としてのピアノ(その28)「宗教と音楽」

山本眼科 山本起義

(2019年3月岸和田市医師会広報掲載)

 小学生時代に仲の良かったYA君の家はカトリックで、良く遊びに行ったものですが、YA君の家は、自分で粉ミルクを溶いて飲むなど、たくましい子供がいっぱい居て、いったいどこの子供たちかと思いましたが、今思えば、カトリックは避妊を禁じていたからでした。YA君は金閣寺教会へ日曜学校に行っており、同行した経験があります。そのときは、ご褒美のお菓子につられてシスターとゲームをする事になりました。質問の多くはYA君に対してで、YA君はスラスラ答えられるのに、家が仏教の私は、さっぱりでした。

煉獄

記憶に残った質問は、「天国と地獄の間は何でしょう」で、 答えは「煉獄です」というものです。あとで母に尋ねてもわからず、そのまま、放置していたのですが、 この原稿を書くにあたって、煉獄についてネットで調べると「煉獄は、カトリック教会の教義で、天国には行けなかったが 地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところであり・・・・。」とあります。

教会の東西分裂以前にカトリック教会と分かれた正教会では、 煉獄を認めていないし、また、プロテスタントでは、マルティン・ルターは、当初、煉獄の存在を認めていたが、 後に他の改革者たちと同じく煉獄を否定するようになったそうで、正教会やプロテスタントなどキリスト教の他の教派では、 煉獄の存在を認めていないようです。

UE先生、SH先生と同じく、私は、 同志社高校出身ですがクリスチャンではなく、また、同級生の多くの家も仏教でしたが、礼拝の出席が悪いと、 同志社大学への推薦に影響するというプレッシャーがかかっていたので、全員が毎朝礼拝に出席していました。 礼拝の際の、聖書を載せる台には「色即是空、空即是色」つまり、般若心経と同じことばが書かれていたと 勝手に思っていました。

しかし、キリスト教に般若心経はどう考えてもおかしいので、ネットで調べた結果、 同志社栄光館におなじものがあり、台の下部には、「我即途也」「我即真也」「我即命也」 と彫られていて、ヨハネによる福音書14章6節「私は道であり、真理であり、命である」の 漢文表記であることが、今になって判明しました。

私のキリスト教の知識がこの程度なのはご容赦頂きたいと思いますが、それにしても、3年間キリスト教系の学校で礼拝に出席し、週に一時間がキリスト教学の時間もあったので、「煉獄」言葉の意味が分かってもよさそうなのに、分からなかったのは、同志社がプロテスタントの学校で、カトリックの教義を教えなかったのだとは今になってわかりました。

オルガニストの津田先生

毎朝礼拝に出席していたおかげで 多くの宗教音楽に触れることが出来たのも事実です。毎朝チャペル(礼拝堂)入ると、 オルガニストの津田先生がバッハのトッカータとフーガなど弾いて聴かせてくれましたし、 讃美歌も毎日3年間歌ったので、有名なものは大体知ることになりました。

津田先生のオルガンをいつも感心しながら聴いていたものです。 というのも、毎朝、オルガンを弾きながら、田中牧師と今日の礼拝の段取りを 話し合っておられて、しかも、オルガン演奏は止まらないのです。 私には、とてもそんな芸当は出来ませんでした。

チャペルは、イエス・キリストもマリア様の像もないので、YA君の日曜学校に同行した金閣寺カトリック教会とは随分違うと映りました。 同級生のMU君から当時きいた話では、プロテスタントなので、偶像禁止が基本だと言われました。

当時、私は、クラッシック音楽でも、 古典派のバッハ、ベートーヴェンは苦手で、当然なのかもしれませんが、チャペルのオルガニストで、 聖歌隊を指導していた、津田先生が「バッハが好きだ」と仰る言葉を、 素直には受け入れることはできませんでした。

当時の世間の風潮が、クラシックといえば古典派賛美一辺倒で、それを理解しようと、 無理にベートーヴェンなどを一生懸命聞きましたが、あまり好きになれませんでした。

私が素直に美しいと感じるのは、多くの方と同じショパンでした。家では、 上の兄弟が皆ピアノを習っておりましたが、「ピアノを弾くと勉強しなくなる」 という父の意向で私の代からは習わせてもらえず、曲は知っていても曲名は知らない事が多く、 「乙女の祈り」は高校に入る前に、曲名がわかりましたが、ショパンの「英雄ポロネーズ」は 分からなかったので、メロディーだけ書いて津田先生に尋ねたことがあります。

手書きの譜面が悪かった為もあって、津田先生からは「ポロネーズみたいだな」と一言仰り それ以上の情報は得られませんでした。当時の状況では、学校の音楽の教科書でもショパンは 皆無だったと思います。

古典派は堅苦しいという私の先入観は、チャペルで演奏されるバッハの曲をきいて 「素晴らしいと徐々に感化されてゆきました。」ちなみに、プロテスタントでは、 牧師、歌は讃美歌ですが、カトリックでは神父で、歌は聖歌となっています。宗教音楽の基礎は、 同志社高校で教えられたものが基礎になっていると考えています。

 現在では、パイプオルガンは教会の楽器というイメージが強いのですが、キリスト教会は、 はじめ教会における楽器の使用を禁じていました。「世俗的」な楽器とみなされていたのがその理由です。 9 世紀頃から教会で用いられるようになり、13 世紀頃までには、教会でオルガンが本格的に活用される ようになりました。半音鍵を全て備えた最初のオルガンはハルバーシュタットの オルガン(1361 年完成)で、現在の鍵盤配列が出来当たったのはこのころという根拠になっています。

担任で牧師の田中先生

高校時代のキリスト教学の授業は田中牧師の 担当で、聖書と聖書をめぐる歴史的事実(主にシナイ半島)を習ったわけですが、聖書は世界最大の 発行部数を誇る書物だそうで、旧約聖書と新約聖書にわかれ、「旧約聖書はキリスト教だけでなく、 ユダヤ教、イスラム教でも同じものを使う」と習い、また「お経のように、『神は・・・・・』と読経する ものではありません。」と習いました。ただ、その件に関してはそれ以上の話はなく、 なにを言いたかったのか分かりませんでした。

しかし、高校3年生の時の担任が田中牧師になり、私が最後の最後で同志社大学に推薦してもらわず、 医者になると言い出したので、困っていた母を「本人が医学部へ行きたがっているのだから」と 説得してくれたのも田中牧師で、その面で感謝しています。

ユダヤ教、キリスト教とイスラム教

 ユダヤ教は厳格な教義を守ったものが天国に行けるという教義だそうですが、 そんな聖人のような一生を過ごせる方の方がまれで、それでは、ほとんどの者は天国に行けないことから、

「少々の過ちはイエス・キリストが負うので天国へ行けるよ」と説いたのが、キリスト教の聖書、

しかし、「どうせ悪い事をしてもイエス・キリストが代わりに罪を負ってくれるから、悪いことをしよう」 という輩が出てきて、それはいけないという事から、ムハンマド(マホメット)が厳格な戒律を定めたのが コーランだとか・・・ネットではそんな事が語られています。

 プロテスタントとカトリックの違いは、 神の存在を第一の権威に置くことはおなじでも、プロテスタントは聖書を、カトリックは教会を第二の権威 としている事だそうです。

一方イスラム教ではムハンマドの後継者に4人の最高指導者をカリフとしたスンニ派(8割)と 血縁関係を重視した子孫を後継者とするシーア派(1割)にわかれています。

つまり、ユダヤ教とキリスト教は無関係ではなく、もともとは同じで、ユダヤ人であったイエスキリスト が、ユダヤ教を批判し改革運動を行ったために、ユダヤ教徒から反感を買い死刑判決を受け、処刑されます。 ユダヤ教徒がキリスト教徒を異端だと非難するのは、もともと両者ともユダヤ教徒だったからで、 キリスト教と仏教はもとが違うので、異端とは言わず、異教徒といいます。

ムハンマドはイスラム共同体の長という側面と、イスラム教の神の使徒という側面を持っていて、 イスラム共同体の長として広大な領土を支配し、一方で教祖という側面を持って、 イスラム教を広めましたので、ユダヤ教とキリスト教とのような直接の関係はなさそうですが、 キリスト教世界から見たムハンマドは「新たな契約を結んだイエスの後に、余計なものを付け加えた者」、 そしてユダヤ教世界からみたムハンマドは「イエス同様ユダヤ教の内容を歪曲した新宗教を作り上げた人間」 とされていて、両者とも異教徒ではなく異端とみなしているようです。

日本の宗教戦争

はるかに、規模はちいさいのですが、 日本では、浄土真宗の本願寺の門徒集団が起こした「一向一揆」が有名で、後に織田信長が比叡山延暦寺を 焼き討ちしたあと、残る最大の敵が本願寺でした。

1570年に始まった石山合戦は1580年実質的には本願寺の敗北で終わります。しかし、 教如があくまでも信長との和解に反対したため、本願寺11代顕如は教如を勘当し、 これが東西本願寺の始まりで、顕如が没すると長男教如が12代目を継いだが、 秀吉の圧力で弟の准如が12代目となり(西本願寺)、その後、徳川家康からは、 別に土地を与えられて教如は別立して本願寺(東本願寺)を建てました。

宗派の分裂

もう一つ、世界を見渡すと、大乗仏教と小乗仏教があります。小乗仏教は厳しい修行を続けて悟りを開くというもので、ユダヤ教に似ていますし、大乗仏教はそれではほとんどの凡夫が救われないことから、呪文を唱えるだけ、あるいは呪文を頭に浮かべるだけで救われるというものです。小乗仏教は船に乗れるのが小数なので小乗、皆が船に乗れて救われることから大乗仏教と言われています。ユダヤ教からキリスト教そしてイスラム教と変遷していった歴史と多少似通っていると思うのですが、如何でしょうか。

さらに、お経には小乗経典、大乗経典、密教経典、その他があります。原始仏教経典が小乗経典とされていて限られたものしか救われない小乗経典は、釈迦が直伝したものといわれている「阿合経」などがそれにあたるそうです。しかし、自らを小乗経典だと名乗る経典は現実には、存在しないそうです。

薬師寺

東大寺の大仏を見せてやりたくて、子供を連れて東大寺へゆきましたが、すごく交通渋滞に巻き込まれて、目的地を薬師寺に変更しました。薬師寺(平成10年(1998)よりユネスコ世界遺産に 登録)では、寄付を募る僧侶の現代風の説法があり、奈良時代「僧侶はエリートだったのです」と随分強調していました。その中でも「キリスト教と仏教の決定的な違いは、キリスト教では人間と神とは全くちがうものであり、どれだけ修行しても神にはなれないが、『仏教は修行し悟りを開けば誰でも仏になれる、これを成仏という』」という印象的な説法でした。

薬師寺「玄奘三蔵院伽藍」大唐西域壁画殿には 平山郁夫画伯の『大唐西域壁画』が、奉納されていて、見どころが多いお寺ですが、大唐西域壁画殿の横の 経蔵は膨大なお経が収められていて、その迫力に圧倒されます。

玄奘三蔵(602-664)は中国・隋代に生まれ、唐代を中心に活躍しました。『西遊記』に登場する 三蔵法師のモデルとなった実在の人物です。27歳の時密出国により3年の旅を経て天竺のナーランダ寺院に たどり着き、戒賢論師に師事して瑜伽唯識の教えを学び、そして17年の旅を終え、経典657部の他、 仏像や仏舎利を20頭の馬の背に乗せ帰国しました。

玄奘は持ち帰った仏典の翻訳に取り掛かり、19年間で地理的な記録書である『大唐西域記』と、75部1335巻の仏典を翻訳しました。玄奘の翻訳は画期的なものであり、玄奘より前の翻訳を「旧約」、玄奘以後の翻訳を「新訳」と区別しています。玄奘三蔵は弟子の慈恩大師に教義を託し、慈恩大師は法相宗を薬師寺に開きました。法相宗では慈恩大師を開祖、その師である玄奘三蔵を鼻祖として仰いでいます。

二大翻訳家

仏教の翻訳家には5世紀前半の鳩摩羅什、6世紀中ごろの真諦、7世紀中ごろの玄奘、8世紀中ごろの不空が四大翻訳家と言われています。中でも鳩摩羅什と玄奘は日本に多大な影響を及ぼした二大翻訳家として欠くことができません。  鳩摩羅什は350年中央アジアのクチャ国生れ、インド人の出家僧の父とクチャ国王の妹との間に生まれ、7歳で母と共に出家し、インドで小乗仏教を学んだあと、大乗仏教を知り大乗仏教の教えが優れていると確信、紆余曲折のあと中国に渡来し漢訳を進めました。

「般若心経」は有名なお経ですが、このお経の画期的な点は、はじめて大乗仏教を唱えたことにあるといわれ、 日本では、玄奘訳が使われており、私の家(浄土真宗)では使われませんが、天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗で読まれているそうです。

 さて、この膨大な経典と比べると、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランは随分とシンプルで一冊にまとめられています。お経は釈迦の教えには違いないのですが、 釈迦本人が書き残したものではありません。当時のインドでは世俗的な用途に使う文字を釈迦の教えに使うのは不遜だとして、 口伝で伝えるのが正しいとされ、それを暗記して人々に伝えることが読経に繋がったとされています。

 その、口伝の結果、お経は「八万四千の法門」と言われるような膨大な種類になり、あまりにも多すぎて現在も正確な数字は不明だそうです。 おまけに、仏教がインドから中国など各地に伝播するにあたり、その渡来地でもお経がつくられて、これらをまとめたものは「大蔵経」あるいは 「一切経」と呼ばれ、日本で一般的に使われている大蔵経は「大正新脩大蔵経」で全百巻からなり、その中に3053部のお経が収められている そうです。

釈迦の十大弟子に舎利弗(シャリホ)、目連、摩訶迦葉(マカカショウ)、などがいました、ところが、釈迦が入滅したとき、ある男子の僧が「もう釈迦から口うるさく言われることは無くなった。」放言をはきました。それを聞いた摩訶迦葉は正しい教えを守り伝える必要性を痛感し、十大弟子を中心として約500人の高僧が経典編纂のためにあつまり所謂「結集」という会議をおこないました。その第一回結集いらい1000年以上にわたり作り続けられたので、八万4千の法門があると言われるように膨大な種類になったそうです。

仏教と経典

岸和田では浄土宗(法然)が多く、次いで真言宗(空海)、我が家の浄土真宗(親鸞)と私が養子に行っていた家は日蓮宗(日蓮)で、 岸和田では少数派です。薬師寺を巡ると、十大弟子の仏像を目にすることがあります。 舎利弗(シャリホ)は良く浄土真宗のお経に出てくるのですが、これは人名で「舎利弗(シャリホ)よ、 極楽浄土はこんなに素晴らしいところなんだよ」と説いているところだそうです。

それぞれに個性豊かな弟子ですが、私の好きなのは十番弟子の阿難陀(アナンダ)で、別名お酒で有名な「多聞」といえばご存じかと思います。 釈迦に25年間仕え、最も多くの教えを聞いた阿難陀は釈迦の説法が対機説法で時に正反対の言葉で法を説くこともあって、 なかなか悟りを得られなかったのです。釈迦の入滅後「結集」が開かれることになったのですが、 一番多くの教えを聞いた阿難陀(アナンダ)は欠くことの出来ない存在だったのですが、悟りを得た僧しか出席できない事になっていました。 しかし、結集当日の朝ついに悟りを得ることが出来て、出席し、「如是我聞ニョウゼガモン(私はこのように聞きました)」と述べたといいます。阿難陀(アナンダ)が悟りを得ていなければ今日のお経は無かったかもしれないと言われています。

目連とイエスキリスト

釈迦の十大弟子の舎利弗(シャリホ)と目連は二大弟子とも言われます。その目連は 悟りを開いた者が得られる超能力(神通力)に最も優れていました。教団発展に尽くし 他教団から仏教教団へ移る信者も多くいて、それが他教団から反感を買い、 何度も命の危険にさらされましたが、目連は神通力により襲撃を事前に察知し、何度も難を逃れました。 仏教で「因果応報」とは何事にも原因と結果があるということなのですが、再三襲撃されて危うい目 にあった目連は自分の前世を神通力で探ってみたところ、前世の自分は目の見えない親を殺そうとしたので その報いで賊に狙われていることが分かりました。

それ以来、「目連は神通力を捨て、襲撃されるがまゝにして、瀕死の状態になり、最期は釈迦に涅槃へ行く挨拶をして入滅した。」と言われていますが、このへんの事が、「貴方の先祖が悪いことをしたので因果応報がきています。この壺を買えばたすかる」という霊感商法に利用され被害を生んだのだと思います。現在の仏教界ではこのような先祖の罪が現世に及ぼすという考えはないと言われています。わたしも、目連が殺されたのは、イエスと同じで他教団からの反感を買ったからだと思っています。

仏教と仏像

平成19年に母が亡くなってから、法事は私がすることになったので、少しは、仏教の勉強をしました。 ちょっと新しい知識をご紹介しますと、全国各地の寺院を観光すると、色々な仏像を目にします、 阿弥陀如来、文殊菩薩、不動明王、帝釈天、韋駄天など、その仏像と仏教の関係がさっぱり分かりませんでした。 詳細は双葉社発行、藤井正雄著「お経が分かる本」に詳しく書かれていますので、そちらに譲りますが、

如来とは「正しく悟りを開いた人」の事で、

菩薩とは「悟りを求めて修行する者」の事、

明王は「『すべての人々を教化し救済せよ』という如来の命令を受けた尊格」で、密教独特の仏、

天は仏教の神様よりも古くからいると言われ、「天上界に住んで仏法を守護する神々を言う」とされています。 四天王(多聞天、持国天、増長天、広目天の四武神、なお、多聞天は独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶ)、弁財天、吉祥天などが有名です。

NHKのドラマで韋駄天もその一人で、釈迦が入滅したときに、足の爪を盗んだ輩がいて、信者が取り戻してほしいと頼んだとき、すごい速さで追いつき、取り戻したと言われています。

宗教音楽の消長

キリスト教は元来ユダヤ教と同じで偶像を禁止(726偶像禁止令)していましたが、 ローマ教会では布教活動として偶像を必要とし、さらに、続く封建時代にローマ・カトリックの 権力が大きくなるとオルガン演奏も取り入れられ(9世紀―14世紀)ました。しかし教皇や聖職者の 腐敗堕落がはじまり、イタリアにルネサンスが起こったころ(14世紀―16世紀)ドイツでは宗教改革が、 イギリスでは1535年にイギリス教会がカトリックを離れて独立しました。

カトリックを離れたイギリスでも宗教改革の影響で歌舞音曲が抑制的になったためか、 世俗音楽は栄えましたが、ヘンリー・パーセル(1659−1695)以降、 エルガー(1857−1934)まで優れた作曲家を持たずヨーロッパに比べて随分遅れたと 言われています。ただ、この間ドイツ生まれのヘンデル(1685−1759)がイギリスで活躍しました。 つまり、ヨーロッパの音楽の消長は、宗教の消長に大きく影響されたといえます。

イスラム世界では基本的に歌舞音曲と偶像崇拝の禁止から、モスクではコーランを読むときに抑揚をつけて読むぐらいで、体系的な発展はなく世俗音楽にとどまっていると考えられます。仏教の場合は、あまりに宗派が多くて、絶対的な権力を持たなかったため、宗教音楽は発展せず、神道においては、雅楽などが用いられますが、自由な作曲が許されなかったので、発展は限定的になったのではないかと思われます。

参考文献

1)藤井正雄:お経が分かる本、双葉社 1997年 第一刷、2006年 第20刷
2)坂東 浩:うちのお寺は真宗大谷派、 双葉社 2005年 第一刷
3)木村 佐千子:ドイツ語圏の鍵盤音楽(I)中世からウィーン古典派まで、独協大学ドイツ学研究 63:2010
4)堀内敬三:音楽史 音楽之友社 1947年 第一刷、1971年 第33刷
5)村川 堅太郎 他:改訂版 詳説世界史 山川出版社 1971年