医師会の浜中先生(外科)はフォイリッヒピアノをお持ちだそうです。そのピアノが、かつて医師会の懇親会で話題になりましたが、私には何の知識もなく、
それ以上話は盛り上がりませんでした。しかし、フォイリッヒは、オーストリアのベーゼンドルファーと同等の評価を受けていたドイツの高級ピアノ
だったことを後で知りました。流石クラッシックに造詣が深い浜中先生のお持ちのピアノだとあらためて感心しました。そのフォイリッヒが
最近また、話題になっているので、少し調べてみることにしました。
フォイリッヒピアノ
フォイリッヒピアノは1851年にライプツィヒでユリウス・グスタフ・フォイリッヒにより設立された会社で、1911年には360人を雇用し、
1000台のアップライト、600台のグランドを製造して、全世界へ輸出しており、高い評価を受けていたドイツを代表する優れたピアノ製作所の一つでした。
不幸なことに、第二次世界大戦中に、東ドイツの主要都市に工場があったために爆撃で破壊されてしまい、敗戦後の東ドイツは共産圏国家の一員となったので、会社資産の強制的公用徴収により、
身動きの取れない状態となりました。
しかも、東ドイツにあって「鉄のカーテン」で仕切られていたため、フォイリッヒの輸出は限りなくゼロに近いもので、この状態を脱するには、西ドイツへの脱出
しかありませんでした。
そこで、西ドイツのミッテルフランケンのラングラウにあるオイテルペというピアノ会社の傘下に入ることで、西ドイツでフォイリッヒが将来を託す
会社の設立にこぎつけました。
このことがフオイリッヒの第二次黄金期の端緒になったのです。
○オイテルペ社の生産協力により、第二次黄金期が1959年から始まり、
ミッテルフランケンでのフォイリッヒの生産がより拡大した結果、オイテルペのあるラングラウのおよそ5q西の
グンツェンハウゼン(上記地図参照)に本社を移したのは1960年代の事です。
それから1970年代末までには、工場はおよそ2000のアップライトピアノと300のグランドピアノの一年に製造し、
最高276人の従業員を雇用しました。
○しかし、1989/90年のドイツ再統一後のドイツ経済が経済的に破綻した
東部ドイツ(旧・東独(ドイツ民主共和国:DDR))を組み入れて復興するには想像以上の困難が伴いました。
経済苦境はピアノ業界にも及び、結果1991年にオイテルペがベヒシュタインに売却されたため、傘下のフォイリッヒも同時に
ベヒシュタインに売却されました。
ところが、すぐあとの1993年にはフォイリッヒは買い戻され、
1994年にはレーニッシュとフリッツ・スタインバウア社でフォイリッヒが生産されることになります。
この買収から買い戻されるまでのベヒシュタイン傘下にあった2年間にフォイリッヒから得たノウハウがのちの
ベヒシュタインの改良に大きく影響します。
ベルリンにあったベヒシュタインの事情
第二次世界大戦以前のピアノの世界のトップブランドはベヒシュタインでしたが、戦時中にナチスの広告塔として
利用されたために、連合軍の標的となり爆撃で工場は完全に破壊され、3箇所あるうち、一ヶ所の木工工場と、
もう一ヶ所の組み立て工場とはほぼ全壊、残る一ヶ所の工場にはオフィスとショウルームがあり設計図面保管してありました。
ほかの二か所の工場が東ベルリンにあったのに、その三つ目の工場は幸運なことに西ベルリンにあったために、戦禍を免れたようで、
そこへ戦後戻ってきた職人が設計図をたよりにべヒシュタインを復活させたそうです。
1945年〜1962年まではベヒシュタインの暗黒時代、
1963年には米国のボールドウィン社が会社を再建し、
その後の1986年にボールドウィンは会社をカール・シュルツェ氏に売却しました。
1989年にベルリン、カールスルーエ、エシェルブロンの3工場はベルリンの工場に統合されました。
1991年にオイテルペとその傘下のフォイリッヒを買収。
1992年にベルリンで作ったピアノにはベヒシュタイングループのオイテルペ、ホフマン、ツィンマーマンが含まれていました。
1993年にはフォイリッヒを売却。
2003年会社の将来の展望を慎重に考慮し、ベヒシュタインは韓国の楽器製造会社サミックとの資本提携を行うことになりました。
この結果、持ち株比率から一時的にはベヒシュタインはサミックの傘下となります。
しかし、2004年11月から2005年7月までのベヒシュタイン株の増資により、サミックのベヒシュタイン株の保有割合は39%に縮小しました。
この増資はベヒシュタインとサミックの合意に基づくものです。
2005年ベヒシュタインとサミックは中国の上海に共同事業としてベルリン・ベヒシュタイン・ピアノ(上海)会社を設立しました。
2006年にはドイツのザイフェンナースドルフに工場が移転し、此処でベヒシュタインブランドとツィンマーマンブランドが製造され、
また、同時期にチェコのボヘミアピアノを買収しベヒシュタインは、此処をベヒシュタイン・ヨーロッパと名称を変更して、
ボヘミアブランドと平行してホフマンの製造をしました。
中国とインドネシアではオイテルペ、スタインマンブランドを製造していました。
しかし、2009年からオイテルペとスタインマンは製造中止、
2011年からはツィンマーマンのドイツでの製造を中止しました。(現在は韓国のサミックと上海に設立した合弁会社で製造しているとおもわれます)。
2011年からはホフマンのヴィジョンシリーズは中国のハイルンピアノが製造するようになっています。
○このように、ベヒシュタインのシュルツェ社長の矢継ぎ早の改革により、ピアノの製造所と製造ブランドはめまぐるしく変わっていますが、
今は、ベヒシュタインの第二ブランドはホフマン、第三ブランドはツィンマーマンというところに落ち着いています。
ラインナップの分かりにくいベヒシュタイン
第二、第三ブランドはさておいて、ベヒシュタインのラインナップの機種名称が理解しにくいので、調べるとおよそ次のようなことがわかってまいりました。
実は、ベヒシュタインは、戦前はスタインウェイと同じく、A型、B型、C型、D型を作っており、K型(Kurz)、M型(Mittel)のほか、
イギリスではベビーグランドのS型も作っていました。
それが、戦後のある時期からA型がラインナップから外れていたため、L、M/P、B、C、Dという、分かりにくいラインナップになっていたのです。
グランドを作る会社にとってA型は基本的なサイズであるはずなのに、ないのは、戦後の混乱期に設計図が散逸し、
ベヒシュタインのA型が製造できなくなったと思っていました。
しかし、どうもその考えは誤っていたようです。1974年にスタインウェイはグランドピアノの設計の全面変更を行い、
大変パワフルなピアノに生まれ変わりました。ベヒシュタインはその変化を横目で見ながら、新たなA型へと改良を模索していたの
だと思います。
従来のベヒシュタインがもつ澄んだ音色は、独自の設計によるもので、それを捨てるとパワーが向上するものの、
音色が濁ってしまいます。澄んだ音のままパワーを向上させる、という両立に時間がかかったということです。
つまり、もともと大きなB型以上のものは、パワーがあるのでそれほど問題ではないのですが、A型以下は総アグラフの構造を維持したままパワフル
にするのは困難で、試行錯誤に時間がかかりラインナップから外れていたのだと推測しています。
1986年ボールドウィンから会社を取り戻したシュルツェ社長は、改良をまず大きなピアノから始め、ベヒシュタイン弾きとして名高い、
ホルヘ・ボレとフルコンサートピアノの共同開発をし、1989年EN280を発表します。(EN:Emperor Neuの略)
ベヒシュタインA型に影響を与えたフォイリッヒ
A型がラインナップから消えていたのは、もっとパワフルなピアノでないと、現代のピアノとして生き残ってゆけないという
シュルツェ社長の認識があったのだと思います。
そうこうしているうちに、東西冷戦が終結し、1990年ドイツ再統一がおこり、1991年ベヒシュタインはオイテルペとその傘下のフォイリッヒを買収しました。ピアノパッサージュ社長の尾崎正浩氏によれば、
買収したフォイリッヒピアノから得たノウハウが新しいA型の改良に貢献したそうです。
念願のA型復活を果たしたとも言うべき
新設計のA型は、A189スタジオと命名されました。
上の表をご覧になるとお分かりのように、A189が出てから、徐々に青の旧式から黄色の新型へと設計変更が成されてゆくのが
時系列でわかります。
このA189は大変好評でしたので、このピアノをベースにゴールドライン(写真上左)というアクションを使いコンサート用
として作ったのがL162とM/P192です。(M/PのPはそれまでのM型と区別するためとフォイリッヒではプロフェッショナル
と命名していたことに由来すると憶測しています。)
同時に、シルバーライン(写真上右)という幾分安価な部品を使いA160とA190を、音大生の練習用ということでアカデミーとして
廉価版をだしました。
この、ゴールドラインとシルバーラインのアクションの差は、どちらも
ドイツレンナー社のアクションで設計は同じですが、部品の調達先がドイツ国内か、中国からの調達かで差別化を図っているようです。
この2003年はベヒシュタインの全機種は総アグラフから決別しカポダストローバへと変更した創業150周年の時期になります。
創業150周年(2003年)に新設計を発表したベヒシュタイン
創業150周年を迎えて、新設計にピアノを変更した理由について、ピアノ製造マイスター、コンサート調律師のヴェルナー・アルブレヒト氏
は次のように語っています。「今までのベヒシュタインの設計をし直したのは、ピアニストから希望として多かったのが『音量(特に高音域)を
大きくしてほしい、ただしベヒシュタインならではの持ち味はけさないで』という声でした。
ベヒシュタインピアノの本質を表す特徴である、音域間の調和、クリアな音、透明感のある響きに、さらに力強さを加えたことは、
カール・ベヒシュタインがリストの要求にも答えられるようにピアノを改良した当時と同じくらいの、発展的変化を現代のベヒシュタインに
加えた画期的なものだった。」というのです。
「現在ステージでは非常に大きな音を出せるピアノが支配的になっている一方で、大きな音は出るけれど『ピアノに音色がない』といわれる
ピアノが多くなっています。そんな現代にあって新設計のベヒシュタインは『力強くてしかも音色がある音』を出せる魅力的なピアノになったと
自負しています。」ということです。
「高音域の音量を大きくするために、その部分のハンマーヘッドを大きくする必要がありましたが、その結果、これまであった設計の特徴を保つ
ことができなくなりました。とくに、弦を張り、位置を定めるのにアグラフで支えるというベヒシュタインだけがごく最近まで守ってきた原則がそうです。
新モデルではカポダストローバが使われるようになりました。ただしこの構造を採っても、多彩な音色が得られ、ベヒシュタインらしい響きを残すために
考慮しなければならないポイント、中でも重要なのが、ベヒシュタインの共鳴体のコンセプトである『バランスの良い緊張関係』を基礎とした
フレーム(リム)、支柱、響棒と響板の独特な構造の工夫です。」と答えています。
○戦後のラインナップからA型が消えて久しく、それが復活し、150周年に総モデルチェンジを迎えるには、
1986年の会社がシュルツェ社長に戻り、カポダストローバのノウハウのなかったベヒシュタインが、買収したフォイリッヒから学ぶことがなければ出来
なかったのかもしれません。
その、フォイリッヒが浜中先生宅にあると聞けば、益々どんな音色か聴きたくなりました。
○ベヒシュタインの当初のもくろみでは、第一ブランドがベヒシュタイン、第二ブランドがツィンマーマンでともにドイツで生産し、
第三ブランドはホフマンでチェコで生産していました。
しかし、買収したチェコのボヘミア(現ベヒシュタインヨーロッパ)の作るホフマン・トラディショナルの品質が予想外に良好で、ツィンマーマンと変わらないという誤算があり、
2011年にはとうとう競合商品のツィンマーマンのドイツでの生産を中止しました。
チェコの職人魂は、ホフマン・トラディショナルシリーズにとどまらす、最近ではその上の品質のホフマンプロフェッショナルを生産するまでになる
という嬉しい誤算がありました。
その結果、ベヒシュタインは2014年からは、コンサート用をマイスターシリーズ、アカデミーはプレミアシリーズと名称変更が行われたほか、
現在、ホフマン(チェコ)がツィンマーマンを追い越してベヒシュタインの第二ブランド、ツィンマーマン(韓国サミックが製造)がベヒシュタインの
第三ブランドになりました。ベヒシュタインの学生の練習用のアカデミーはプレミアムシリーズに格上げされ、名称変更が行われた背景には、チェコの
ホフマンの職人の努力があったのではないかと思います。ベヒシュタイングループのピアノには目が離せない状態になってきています。
フォイリッヒの現在
○繰り返しになりますが、フォイリッヒはオーストリアのベーゼンドルファーと同等の評価を受けて
いたこともある高い品質を誇るメーカーでした。
1991年オイテルペ社がベヒシュタインに売却されたので、その子会社のフォイリッヒも一緒に売却されました。しかし、1993年にはこれらの
株式が買い戻されます。 1994年には、新しいフォイリッヒの生産がレーニッシュ社とフリッツ・シュタインバウアー社で始まりました。
(レーニッシュはブリュートナー傘下の会社です)。
その後の1999年にはフォイリッヒの生産はすべてグンツェンハウゼンの新工場へ移されました。 フォイリッヒの高度な技術を持った職人により、
その独特の音色と品質は、そのまま維持され世界のピアノブランドのトップ10と言われていました。
しかし、その工場も2010年にはオーストリアのウィーンのメーカー、ウェンドル&ラングに売却され、中国のニンボーのハイルンというメーカーで、
ハイルンブランド、ウェンドル&ラングブランドとともに、フォイリッヒブランドも中国でOEM生産されることになりました。
その結果、大幅なプライスダウンが可能となって、私たちの手の届く価格になったことは喜ばしいのですが、音色はともかく、アクションの品質がまだかつての
フォイリッヒには至っていないとも言われています。フォイリッヒの今までの高い品質と音色が、中国でも維持されるのかどうかは今後注目されるところです。
注:ウェンドル&ラング、ピアノ製造販売会社
ウェンドルアンドラングのブランドは、1910年に、二人のオーストリア人、シュテファン・ルング Stefan Lung と
ヨハン・ヴェンドル Johann Wendl の協力で、オーストリアのウィーンで始まり、 1926年には、生産台数が累計1000台に達しました。
しかし、製造は1930年ごろから減り始め1956年に中断し、1980年に一旦再開したものの4年後にはウィーン工場での製造を終了していました。
1994年に家業を継いだ4代目のペーター・ヴェレツキ Peter Veletzkyは、中国の様々なピアノメーカーの技術アドバイザーとして活動しました。
その時、上海から近い寧波(Ningbo)にある寧波海倫楽器(Ningbo Hailun Musical Instruments Co.Ltd.)の社長のHailun Chenと知り合いハイルン
とウェンドル&ラングとの関係が始まりました。2003年には、ウェンドルアンドラングのブランドをもったピアノの製造が、ハイルン社で始まり、
まず、アップライトピアノの生産、後にグランドピアノも生産されるようになり、2010年時点での年間製作台数は約2400台で、オーストリア本社に20名、
寧波海倫楽器には800名の従業員がいるとのことです。