趣味としてのピアノ(その24)「バッハと目」

(2014年3月31日岸和田市医師会広報より)

皆様方にはいつもお世話になり有難うございます。 2012年につづき、また新年会の席でピアノ演奏をさせていただきました事、誠に有難うございました。 今回は当日の演奏曲目にお話しきれなかった点に関連して、医師会広報に掲載させていただきましたことを再掲します。

演奏曲目

バッハ:平均律クラビーア第2集の17番 前奏曲とフーガ 変イ長調 BWV886

ショパン:前奏曲 作品28 1番 ハ長調、 15番 変ニ長調「雨だれ」

ワルツ      7番 嬰ハ短調 作品64の2

9番 変イ短調 作品69の1「別れのワルツ」

即興曲         3番 変ト長調 作品51

ポロネーズ    1番 嬰ハ短調 作品26の1

マズルカ    17番 変ロ短調 作品24の4

32番 嬰ハ短調 作品50の3

ポロネーズ    6番 変イ長調 作品53「英雄」

練習曲 ホ長調 作品10の3「別れの曲」



ショパン( Frederic F. Chopin 1810−1849)

ショパン(1810−1849)は1810年ポーランドで生まれ、20歳まではポーランドで、その後はフランスのパリで活躍し39歳で亡くなるまでに200曲余りを作曲しました。その曲の多くはピアノ曲が中心で、ポーランドの民族舞曲のマズルカやポロネーズを数多く作曲しました。またフランスでは、社交界の寵児となり、民族音楽とフランスのエスプリを融合した洗練された作曲で数々の珠玉の作品をのこしました。楽曲説明で2012年の趣味としてのピアノ(その21)「新年会」と重複する部分は省略いたします。

前奏曲 作品28

バッハを敬愛するショパンは平均律にならって、全ての調性を網羅した24の前奏曲を作曲しました。そのうちの1番はショパンでは珍しいハ長調の曲、15番は有名な「雨だれ」です。

ワルツ

パリの寵児となったショパンが好きでもないワルツを作曲するとこうなる、という7番は楽しいウインナワルツとは対極をなすマズルカのような性格をもつ曲です。9番は求婚が叶わなかったマリア・ヴォジンスカにドレスデンで献呈したものです。

練習曲 ホ長調 作品10の3「別れの曲」

1833年に出版された『12の練習曲(Op.10)』は、1829年〜1832年に作曲され、この第3番 ホ長調 『別れの曲』は、 海外では『悲しみ(Tristesse/ Sadness)』、『親しみ(L'intimite/Intimacy)』、または『Farewell(別れ)』 と呼ばれています。

日本では、昭和10年に公開された「別れの曲」(ゲーザ・フォン・ボルヴァリ監督, 1934)という映画からこう呼ばれるように なりました。同じ時期にパリで活躍していた、初見演奏の達人フランツ・リスト(Franz Liszt/1811-1886)も ショパンの『12の練習曲(Op.10)』は流石に弾けず、パリから二週間失踪し、(隠れ練習をして)帰ってきたときには 全12曲弾けるようになっていたので、今度はショパンが驚き、敬意を表して「12の練習曲」はフランツ・リストに捧げられました。



バッハ(Johann Sebastian Bach1685−1750)

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バッハ(Johann Sebastian Bach1685−1750)は18世紀ドイツで活躍したバロック時代の作曲家で、 作曲数は凡そ1000曲におよび、功績の偉大さから、大バッハとも称されます。


次の古典派の時代の一時期に世間では低い評価でしたが、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、 ショパン、シューマン、リストなどといった音楽家に受け継がれた彼の音楽は、 1829年のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに一般にも高く再評価されるようになり、 現在に至っています。

1685年ドイツのアイゼナハに生まれ、1703年にはヴァイマール宮廷楽師、 同年、アルンシュタット新教会オルガニストをかわきりに、 1707年ミュールハウゼン聖ブラウジウス教会オルガニスト、1708年にはヴァイマール宮廷に戻り、 宮廷オルガニスト兼楽師として、 「ブランデンブルグ協奏曲」の一部もここで書かれました。 1717年にはケーテン宮廷楽長に就任しました。


宮廷楽長は当時の音楽家の最高のステイタスであったにもかかわらず、その職を投げ打って、 1723年には、ライプツィヒ・トーマス学校のカントル (カントルは、教会付属学校の教師で、典礼の時に会衆の歌にオルガンなどで伴奏をつけたり、 聖歌隊の合唱指揮者を務めたり、さらにカンタータの演奏では合唱と管弦楽の双方の指揮者を務める のを任務とします。)に就任し、ほぼ毎週、新作の声楽曲を作曲、訓練、演奏する日々をおくり、 精力的に教会カンタータを作りました。現在まで残るカンタータの多くは、ここライプツィヒで 作曲されたものです。

バッハの妻

バッハには先妻のマリア・バルバラと後妻のアンナ・マグダレーナがおりました。
先妻のマリア・バルバラとは、ミュールハウゼン、ヴァイマール、ケーテンと歩みをともにし、 7人の子をもうけましたが、成人したのは4人で、音楽家として活躍したヴィルヘルム・フリードリッヒと 次男カール・フィリップ・エマヌエルは彼女の子供です。

ケーテン時代に先妻を亡くしたバッハは一年半後にアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと1721年に再婚します。 ソプラノ歌手でケーテンの宮廷歌手であった彼女は20歳で36歳のバッハと結婚することになりました。 20歳で結婚し、突然4人の母となり、その後13人の子供を出産しましたが成人したのは6人で先妻の子と合わせて 実に10人の子供達を育て上げました。

アンナ・マグダレーナの功績は子供を育てただけでなく、 夫の楽曲を写譜しました。「無伴奏チェロ組曲」「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」 「平均律クラビーア曲集」などの清書譜は彼女によるもので、新年会で弾かせていただいた曲があるのも 彼女のおかげといえるでしょう。

バッハの使った楽器

バッハの使った楽器 クリストフォリ(Bartolomeo Cristofori di Francesco, 1655- 1731)がピアノを発明したのは、 1700年にメディチ家の目録にあることから、この頃と推定されていますが、バッハ没後10年経過して、 一般にひろまったのは1760年ごろのスクエアピアノからとなっており、バッハはピアノを弾いたことがあるとはいえ、 平均律曲集はピアノのために書かれたものではなく、クラビコードやチェンバロのために書かれたものでした。

クラヴィコードとチェンバロ

クラビコード(写真左)は、鍵盤を押さえるとタンジェントという垂直に立った金属片が弦を叩いて、音を出すというシンプルな 楽器で、家庭で個人が楽しむためのものには成り得ても音が小さすぎ、演奏会用には向かず、実際に演奏会で使用されるのは チェンバロ(写真上右)のようなものでした。

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チェンバロは弦をはじいて音を出す方式で、はじく力は一定で、弾き方によって強弱をつけることはできませんでした。  その欠点を補うために、左写真のように、二段鍵盤のチェンバロも開発されました。上段で弾くと小さく、 下段で弾くと大きく音が出るようになっています。 ただ、この二段チェンバロにしても音量は二段階しかありません。

それで、音量は小さくても、弾き方により自在に強弱や持続音の出せたクラビコードを バッハは好んで使用したといわれています。

ちなみに、フレミッシュ・チェンバロとジャーマン・チェンバロではお気づきかと思いますが、鍵盤の色が白黒逆転しています。 この理由は浜松市楽器博物館によれば、

1)チェンバロの鍵盤は、鍵盤自身の自重で待機位置に戻るので、表(前に)に出ている鍵盤よりも裏(後ろの見えない部分)の 鍵盤部分の方が重くなければ戻りません。ところが、象牙の白鍵はキー全体が重くなり、軽い黒檀(こくたん)で作られた黒鍵は キー全体の重量が抑えられるので、鍵盤の動きが軽快になり、長時間演奏すると明らかに指や手の疲労度が違ってきます。ですから、 重たい白鍵を、数が少ないシャープ・フラットキーに使用しました。

もう一つの理由は、2)この時代の貴族の女性のたしなみとして、チェンバロ演奏することが流行しました。 白い肌が絶対的な美徳とされたこの時代。女性は顔だけではなく手にもたくさんの白粉をはたいています。そんな女性たちの手が、 より白く美しく映えるよう、数多い方の鍵盤を黒くしたそうです。

さらに、3)白鍵は「象牙」、黒鍵は「黒檀(こくたん)」や「紫檀(したん)」という木で作られていました。 共に高価な物でしたが、特に象牙は当時「金」と同じくらい入手困難で高価だったそうで、コストを少しでも抑えるため、 数が少ないシャープ・フラットキーを象牙の白鍵にしました。

(現在のピアノの白鍵は、プラスチックを使用しているものがほとんどです。) つまり、1)演奏上、2)見た目、3)経済的理由があって逆転したそうです。


平均律クラビーアを、ピアノで弾く場合には、チェンバロとピアノの違いを知っておく必要があります。と申しますのも、 ピアノはチェンバロを元にして考えられ、一見そっくりに見えるピアノとチェンバロですが、そもそも音の出る仕組みからして 違うので、両者はまったく別の楽器と言え、チェンバロの進化したものがピアノ、ではなく、チェンバロとピアノは別物だからです。

音の強弱が出せないことは先ほど述べましたが、そのため、ピアノでは曲のテーマ(主題)ので出しを強くすることで、 フレーズの終わりまで表現が比較的容易ですが、バッハのバロック時代ではその手法はつかえないので、アーティキュレーションとか アゴーギクと言う手法で表現していました。現代のピアノではそれを奏者の解釈によって、取捨選択して使うことになります。 また、装飾音の取扱も現代とバロック時代では異なります。

平均律クラビーアと平均律調律

もう一つの問題が「平均律」という言葉の問題です。ピタゴラスが紀元前500年ごろに一オクターブ内に12音の音律を作ります。 その後、1482年に純正音律、1523年に中全音律、そして1636年には一オクターブ内の12音を均等に配列する12平均律が 考案されます。ですから、バッハ(1685−1750)の生きた時代にはたしかに、平均律はあったので、 24の調性が出来るという知識が当然ありました。

しかし、当時は平均律自体があまり評判の良い調律ではなかったので、中全音律[ミーントーン](16世紀―18世紀)、 1691年のヴェルクマイスターの音律(ヴェルクマイスター(1645-1706)は、ドイツのオルガン奏者)や 1779年のキルンベルガーの音律(キルンベルガー(1721-1783)はバッハの弟子で作曲家)という古典調律で調律され、なかでも、 バロック時代はこの中全音律[ミーントーン]が主流でした。

12平均律が広まって一般的になるのは1850年ごろのことなのです。つまり、ロマン派以降の作曲家は平均律で調律された ピアノで弾いていますが、モーツアルト、ベートーヴェンなどの古典派でさえ、平均律のピアノを使っていたかどうかあやしいのです。

よく、ある作曲家はイ長調を好んでつかったとか、ハ長調の曲はこんな感じなどと表現されますが、古典調律では音階が均等配列 ではないので、調性によって随分と雰囲気がちがっていたようです。たとえば、バッハの「ミサ曲ロ短調」の演奏には キルンベルガーの第3調律が用いられたという記録が残っています。

チェンバロの弦の張力はピアノよりはるかに弱くなっています。そのため弦が緩む頻度もピアノより頻繁になり、演奏者は演奏の みならず、演奏の都度、自ら調律する必要があります。 たとえば、私がチェンバロを所有しているとしますと、ヴァイオリンやギター のように、音が狂えばそのつど自分で調律しなおす必要があるというわけです。

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たぶん、私が調律したら、古典調律も平均律もあったものではない適当なものになったと思われます。 もう一つ、当時の古典調律はハ長調では素晴らしい音色を響かせるのに、嬰ハ長調ではそのまま使うと非常に汚い音になるので、 嬰ハ長調向きの調整をする必要があったのではないかと思います。つまり、この曲集を練習するにあたっては、 その調整に最適な調律を十分するように、ということを意図してバッハが名づけたものではないかと思われるのです。

そこで、Das Wohltemperierte Klavierの和訳「平均律クラヴィーア」ですが、18世紀後半から20世紀中頃までは、この語は 今日普及している12等分平均律を指している、と一般的に考えられていて、平均律と名づけられました。

しかし、J.M.バーバーは、1947年にこの曲集は、《程よくなだめすかされたピアノ》と解釈すべく提唱し、その後、 この《平均律》は数ある古典的調律法のひとつを指すのだろうという意見が主流になりました。

しかし、その後1985年にR.ラッシュの多角的な研究によって、バッハの《平均律》が12等分平均律であったと主張しています。

私としては、直訳で「宜しく調律された(well-tempered)クラビーア曲集」とし、それ以上でも以下でもない、つまり必ずしも 平均律を意味するわけではない。ということで良いのではないかと思いますが、和訳は「平均律」が広く用いられてしまって、 私如きがなにを言おうとも誤訳?がまかり通っているのです。

もう一つの問題は、「クラヴィーア」とは何ぞや、と言うことです。当時は、ピアノはありません。バッハ自身はオルガンと、 他の弦を用いた小さな鍵盤楽器とを区別して指定しており、後者をひっくるめてクラヴィーアと呼んでいましたので、 クラヴィコード、フォルテピアノ、チェンバロ、がこの部類に属することになります。

また、ここで「フォルテピアノ(左写真)」というききなれない言葉が出ていますが、フォルテピアノは、現代のピアノの標準的な構造が 確立される以前の、おおよそ1700年頃のイタリアのバルトロメオ・クリストフォリによる発明から、19世紀初頭までのピアノを 指し、これに対して19世紀半ば以降のピアノはモダンピアノと呼ばれます。モーツァルトやベートヴェンの使っていたピアノは 現代のモダンピアノとは異なり、このフォルテピアノを使っていました。


バッハの肖像画

バッハの存命中に描かれた肖像画はいくつかあるものの、信憑性で揺るぎないないのは、 一般に知られているエリアス・ゴットロープ・ハウスマン(1659-1774)のバッハ晩年の肖像画(1746年)です。

1736年にザクセン選帝侯宮廷作曲家の称号をうけ、名実ともにライプツィヒを代表する音楽家となったバッハは、 最晩年の1747年に弟子のひとりであるミツラーが主宰する団体「音楽学術交流会」に入会しました。この会の会則では、 各会員は入会に際して自分の肖像画を提出し、年一度作品を発表するように定められていたからです。

もう一度、最初のバッハの肖像画に戻ってご覧になっていただくとお分かりと思いますが、肖像画には楽譜が描かれています。 これは「6声の3重カノンBWV1076」で、この楽曲の印刷譜が音楽学術交流会に同じく提出されています。

眼の手術で亡くなったバッハ

音楽学術交流会に入会したころのバッハは視力が弱っており、当時、名医と評判だったイギリスの眼科医テイラーの手術を受ける決心 をし、1750年3月に手術は施行されましたが、成功せず、その後はバッハの身体全体が衰弱してゆき、6月頃まで病状は一進一退で したが、7月にとうとう力尽きました。

亡骸はライプツィヒのヨハネ教会に葬られましたが、19世紀にはすでにバッハの墓がどこなのか正確に知ることは出来なくなり。 1894年ヨハネ教会の建て替えに際し、墓を特定するために、数体の遺骨が掘り出されました。

解剖学者のヴィルヘルム・ヒス(1831−1904)は、当時の最先端の知見の基づき、その内の一体(背は高くないが、 がっしりとした老人男性の骨格)をバッハの骨と特定しました。それを元に復元されたのが、 ライプツィヒ・トーマス教会南庭にあるバッハ立像です。(写真左上)

その後、バッハはこうあって欲しいという世俗的な願望を除いて「バッハの素顔」に迫るためスコットランド・ダンディー大学の 解剖学者キャロライン・ウィルキンソン博士は頭骨をレーザーでスキャンし、2008年にコンピューターグラフィックスを駆使して 出来たのが写真右上のバッハ像です。

それにしても、いつも患者さんに、「目の手術で死ぬことはまあ無いのだから、安心して手術を受けなさい。」と勧めている 私にとって、バッハが目の手術で亡くなったことは、当時としては仕方なかったとしても、複雑な思いがします。

謝辞

 謝辞  新年会懇親会でのピアノ演奏の2度目のチャンスを与えてくださいました岸和田市医師会の先生方には厚く御礼申しあげますとともに、この経験を生かして明日から臨床と趣味ともに精進いたしたく存じますので、今後共、ご指導ご鞭撻を宜しくお願い申しあげます。