ボトックスと眼瞼けいれん

(2008年6月24日)

岸和田市 山本眼科医院 山本起義

ボツリヌストキシンと治療

 

A型ボツリヌストキシンの「ボトックス注100」の局所注射が、 1996年に眼瞼痙攣、2000年に片側顔面痙攣、2001年に痙性斜頚に、それぞれの適応がわが国で承認され 保険診療されるようになりました。しかし、まぶたがピクピク痙攣し、ひどくなると「まばたき」や「まぶたの開け閉め」 まで困難になる眼瞼痙攣に対して、承認から12年経た今なお、一般のどこの眼科でも治療が行われるほどは普及しておりません。

ボツリヌストキシンとは

ボツリヌス菌(Clostridium botulinum)は土の中でよく見られる嫌気性菌で、 不利な環境下では芽胞を形成して生き残ります。芽胞は100度で数時間加熱しても生き残ることがあるとされ、 滅菌には120度30分の加熱が必要です。ボツリヌス菌にはA型からG型まで7種類あり、 それぞれA型からG型のボツリヌストキシン(神経毒)を産生します。毒性は非常に高く、 純粋な1グラムで100万人以上のヒトを殺せるといわれ、致死量はサルの研究から類推して70sのヒトでは、 静脈注射あるいは筋肉注射で0.09〜0.15マイクログラム、吸入で0.70〜0.90マイクログラム、経口摂取で70マイクログラムと 推測されています。ボツリヌストキシンは傷口があるときは別ですが、普通は皮膚からは侵入しません。 ボツリヌストキシンの溶液は、無色で臭いも味もないようです。この毒素は85度以上5分間の加熱、 または80度で30分間の過熱で不活化します。

ボツリヌス症

ボツリヌス菌で第一に有名なのは食中毒菌としてで、消化器症状を伴います。 第二は傷からの感染症で、この場合消化器症状はありません。第三は乳児ボツリヌス症で生後1週間から12ヶ月の乳児に見られ、 ボツリヌス菌の芽胞が口からはいると、大人ではないとされていますが乳児では大腸で菌が増殖し毒素を産生することで起こります。 蜂蜜の中にボツリヌスの芽胞が含まれているため一歳未満の乳児には与えないことになっているのもこのためです。 第四は腸管集落性ボツリヌス症で1歳以上のヒトの腸管に数ヶ月間菌が定着し、乳児ボツリヌス症類似症状が長期持続するもので まれとされています。第五はバイオテロで生物兵器としてボツリヌス菌毒素を噴霧されたものを吸入した場合です。

兵器としてのボツリヌストキシン

米国では第二次世界大戦中に生物兵器としてボツリヌストキシンの生産が開始され、 この時期に精製法が確立されました。1970年にはニクソン大統領が生物兵器の研究開発の中止を指示、 国際的には生物兵器禁止条約が発効した1975年以降、開発、生産、貯蔵、輸出入が制限されるようになりました。 しかし、イラクが大量のボツリヌストキシンを持っていたことが1995年国連によって明らかにされたり、 オウム真理教の1995年の地下鉄サリン事件に先立ってボツリヌストキシンを生物兵器として使用を試みたりしたことなど、 今なお軍事転用されやすい側面を持ちます。

医薬品としてのボツリヌストキシン

医療用医薬品としては、極めて微量のA型ボツリヌストキシンが 斜視の治療に使われたのを初めとして、現在では世界各国で様々な疾患に用いられています。 日本ではグラクソ・スミスクライン(株)が販売するボツリヌストキシン製剤 「ボトックス」が国内で唯一承認を受けている製剤で、眼瞼痙攣、片側顔面痙攣、痙性斜頚の治療薬として厚生労働省より 認可されていますが、顔などの「皺取り美容」は適応外で、保険診療は出来ません。 もとが生物兵器であったため、使用にあたっては、 非常に厳重な取扱が求められております。ボトックスは、研修をうけた施注資格医師のみが使用でき、 テロリストの手に渡る危険を避けるため、医療機関では適応の患者さんに施注の予約をし、予約日に製薬会社に発注をしますと、 製薬会社では発注した医師が施注資格のある登録医かどうか確認の上、ボトックスを配送することになっており、 通常の販売ルートでは手に入りません。

ボツリヌストキシン製剤での死亡騒動

2008年1月24日米国の有力な消費者団体 「パブリック・シチズン(Public Citizen)」が、米国でボツリヌストキシン製剤の治療を受け呼吸不全などで 16名の患者が死亡したことをうけ、米食品医薬品局(FDA)に対し、同製剤を使用する医師と患者に、 副作用リスクと安全性に関して、より強い警告を出すように求めました。 これを受けて2008年2月16日頃から日本の報道各社が一斉に報道したのが日本での騒ぎの発端です。

適応外使用

同製剤が日本では美容目的の 「しわ取り」やあごの「えら取り」に 適応外使用ですが、多用されていることから大騒ぎになりました。ところが、その後の報道は例の中国製毒餃子騒ぎで、 報道各社の目は「毒餃子」へと向いて、この話は吹っ飛んでしまいました。FDAでは臨床データ、市販後データ、 文献データの調査を開始しました。調査後の報告までは従来どおり同製剤の処方を継続することを2008年2月8日に 発表しましたが、問題が解決したわけではありません。

生産国と品質

ボツリヌストキシン製剤のボトックス(米国製)は、 純粋にA型ボツリヌストキシンを使用していますが、他に、何型かは不明ですが、フランス製、中国製があるそうです。 保険診療で認められているボトックス注は1本9万4千円程度で施注料とあわせて、 治療代はおよそ10万円かかりますので1割負担で1万円、3割負担では3万円程度が患者さんの負担になります。 「皺取り美容」は保険適応外なので、自由診療で全額自己負担になり一回2〜3万円程度でされているようです。 しかし、高価なボトックスを使い2〜3万円で施術していては採算がとれないので、「皺取り美容」では正規のルートではなく 米国からボトックスを平行輸入するか、認可されていないフランス製あるいは中国製のボツリヌストキシンを使っている のではないかといわれています。ボトックス(米国製)なら平行輸入でも品質上は問題ないが、 中国製では品質に問題があるとも言われています。

ボツリヌストキシン療法の適応禁忌

全身性の神経筋接合部の障害をもつ重症筋無力症、 ランバート・イートン症候群、筋萎縮性側索硬化症等の患者には筋弛緩作用があるので呼吸困難を増悪させる可能性が あるので禁忌。痙性斜頚患者で高度の呼吸機能障害がある場合。妊婦、授乳婦、ボトックスに過敏症のある患者には 禁忌となっています。その他、事細かな注意が添付文書に書かれていますので、詳細はそちらをご覧下さい。

薬剤の安定性とトラブル

ボトックスの安定性は粉末状であれば良いものの、 一旦水で溶いたり、湿気たりするとすぐ不安定になり不活化します。これは仮定ですが、粗悪製剤の場合には さらに品質にばらつきが出て不安定で期待通り施術した効果が出ないということが経験上分かってくると、 投与量を増やして施術することになります。ところが、たまたま薬が失活していないで、活性を保っていた場合には過剰投与が起こり、 そのときの施注部位が首であれば、声門筋の麻痺などが起こり呼吸困難になることもあり得ます。又、これは論外ではありますが、 無資格でボトックス注射を行うなどの事件も相次いでいることから、注意が必要です。 適応外診療(皺とり、あごのえら取り美容など)で施注を受けようとする方にとっては信頼できる医療機関を探すのが 一番重要でしょうが、「ボトックスの適応外使用に関して問題が起こっても供給元のグラクソ・スミスクライン(株)は感知しない」 と言っていますので、あくまで「自己責任」で受けるしかなさそうです。

「眼瞼けいれん」とは

目の周囲には眼輪筋という筋肉があって、まばたきをするときに働いています、 ふだん私たちは角膜が乾燥するのを防ぐため、無意識にまばたきをしています。しかし、パソコンなど凝視するときなどに、 短時間意識的に目を開いていることも可能です。しかし眼輪筋の痙攣が起こると、自分の意思と関係なくまぶたが「ピクピク」したり、 不用意に目が閉じたりしてしまいます。運転中で安全確認が必要なときに、不意にまぶたが閉じるのは非常に危険です。 実際、事故を起こしたり、運転できなくなった方もおられ、さらに重症化するとまぶたが閉じたまま開かなくなり盲目同然になったりする 方もいます。 国内の有病者数は数十万人以上と推定されており、疫学的には高齢の女性に多く、男女比は1:2と言われています。 それから、痙攣はまぶただけとは限らず、顔面に及ぶ場合もあります、これを顔面痙攣言います。

「眼瞼けいれん」の原因

原因は不明ですが、ストレスや明るい光が症状を悪化させるといわれています。

「眼瞼けいれん」の治療

原因が分からないので、治療は対症療法として、 ボツリヌストキシンの目の周囲への注射が主流になりつつあります。しかし、2004年の日本神経学会評議員への アンケートではあまり有効でない内服薬を第一選択としている先生が一番多く、ついでボツリヌス療法という結果でした。

なぜボツリヌス療法が普及しないのか

これは、まずボツリヌス製剤が高価で1回に3割負担の患者さんで 初診料再診料とは別に薬材料と施注料で3万円の負担がかかること、そして、薬が作用する末梢神経の神経筋接合部の シナプスの再生は3ヶ月ほどで起こるので、効果がなくなるとまた3万円かかるという患者負担の大きさにあります。 中和抗体が出来てしまうとボトックスが効かなくなるため、数ヶ月おいて施注したほうが良いと言う意見と、 最近の製剤は改良が進み初期製品より蛋白量も五分の一以下となっているうえ、目の場合は微量であるので抗体は出来にくいので かまわないという意見があります。しかし、添付文書では2ヶ月以内に再投与することは避けることとなっています。 長期にわたって注射を受けている患者さんでは、一般に施注の間隔が短くなってゆく傾向があり、ますます負担に苦しむことになります。

次に、米国で騒ぎとなったようにボトックスの毒素は強力ですが、 瞼に注射するのはごく微量であり、「ボトックス注100」をたとえ全部注射しても死亡するようなことはないそうです。 しかし、この薬がもともと軍事用の生物化学兵器として開発されたため、テロリストの手に渡らないための対策として、 ボトックスの研修を受けた医師が登録し、製薬メーカーは登録医師にしかボトックスは供給しません。 使用後は逐一報告が必要で、使った器具はすべて0.5%次亜塩素酸ナトリウムで失活処理しなければ廃棄できないなど、 取扱が厳格で手続きが煩雑であることです。

さらに、痙攣の程度と範囲に患者さんの個人差がありますので、 ボトックスの施注にあたって、過剰になるとまぶたが閉じなくなったり、目が動かなくなったりしますので注射部位と 用量を適切に設定する必要があります。それには個々の患者さんで試行錯誤が必要で、時間がかかる治療法であること。 などが普及への妨げになっているようです。

今後の可能性

眼科の場合注射は「まぶた」だけなのでので、使用量は僅かで十分です。 それで、眼科用には2008年の秋頃に半量の「ボトックス注50」が発売されるそうです。三村 治教授(兵庫医大)によれば、 症状が出て5年以内に治療を始めたほうが(眼瞼痙攣で17.4%、片側顔面痙攣で19.2%)、自然寛解(数パーセント)より寛解する 頻度が高いそうで、対症療法と言いながらも根治療法になる可能性を示唆しています。患者さんの負担も現在の半分近くで 出来るようになると、もう少し普及する治療法になる可能性があります。