趣味としてのピアノ(その10)「ハプスブルグ家の没落とピアノ」

(平成18年3月31日発行岸和田市医師会広報より)

山本眼科医院 山本起義

ドイツ語圏をルーツにもつスタインウェイ&サンズ(以後スタインウェイと略す)、ベーゼンドルファー、 ベヒシュタインは世界3大ピアノメーカーとも言われております。

特に岸和田市では長さ290cm幅168cmで97鍵と 世界最大のピアノ(2006年現在)、ベーゼンドルファーの「モデル290インペリアル」が「まどかホール」に 1984年日本の関西以西では始めて導入されましたし、

ベーゼンドルファーが21世紀の新基準として世に問うた 最新作「コンサートグランド、モデル280」は、2002年日本では初めて「浪切ホール」に導入されるなど、

徹底した少量生産のため「幻の名器」ともいわれてきたベーゼンドルファーですが、 私たち岸和田市民には馴染み深いピアノですので、今回は、数々の歴史あるブランドのなかで、 ウィンナー・トーンを今に伝える名器として、ピアノの人気をスタインウェイと二分するベーゼンドルファーに ついて書かせていただきます。

ベーゼンドルファーの創始者、イグナス・ベーゼンドルファー(1794−1859)は ウィーンの家具職人ヤコブ・ベーゼンドルファーの息子として生まれ、19歳のときにウィーンのピアノ・オルガン 製造業者ヨゼフ・ブロッドマンに弟子入り、34歳の誕生日の2日前にウィーン市からピアノ製造の認可を受け、 独立しました。それにしても、彼の許可番号第225669号というのは、いったい何人の職人がウィーンでピアノ を作っていたのかと驚かされます。

このウィーンは、モーツアルトやハイドンの故郷であり、ベートーベンとシューベルトが埋葬されていたウエリング墓地 のある音楽ゆかりの地で、

さらにショパン(1810−1849)がパリで愛用したフランスの名器プレイエルピアノはオーストリア出身の 作曲家イグナーツ・プレイエル(1757−1831)とその息子カミーユによって設立された会社が作ったものでした。

そのショパンとも親交が深かったリスト(1811−1886)は、当時最高のバイオリニストといわれ、超絶技巧を門外不出として 楽譜を出版せず自己管理し、弟子も殆ど持たなかったため楽譜の多くは散逸し謎の多かった鬼才パガニーニ(1782−1840)の 演奏を1831年に聴き、感銘を受け、「自分はピアノのパガニーニになるんだ」と研鑽を続け、超絶技巧の数々のピアノ曲を つくりました。

当時のピアノはそんなに頑丈には作られておらず、リストが最後まで弾ききるまで持ちこたえられるピアノは ベーゼンドルファー以外なかったといわれております。これを契機に徐々に名声を高めていったベーゼンドルファーは オーストリア皇帝ご用達ピアノにまでなりました。

イグナスは64歳で死去しますが、このときすでに父からピアノ製作のノウハウを伝授されていた1835年生まれの 息子ルドウィッヒは後を継いで、ピアノの改良に取り組んだほか、リヒテンシュタイン皇太子の乗馬学校を ベーゼンドルファーホールにすることを説き伏せ、ここで、アントン・ルビンシュタイン、サラサーテ、フランツ・リスト、 マックス・レーガ、アルツール・ルビンシュタイン、ブラームス、バルトーク、グリーグ、パデレフスキー、 ブルーノ・ワルター、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、エミール・ザウアーなど錚々たる作曲家や演奏家の演奏会 を開催し興行にも成功しました。(1882~83年伊藤博文が渡欧中、ウィーンでリストの弾くベーゼンドルファーを聴いて 「あの上手なピアノの引き手をピアノ教師として日本へ招聘せよ」 とお付のものに命じたエピソードが残っている。)

 このような活動が功を奏し、全ヨーロッパで名声を得たベーゼンドルファーが、写真に示すような各国の王室用 (日本の皇室を含む)にカスタムメイドのピアノを作り得たのも1866年のプロシア、イタリアの戦争後第一次世界大戦 までオーストリア帝国に長い平和な時代が続きウィーンが繁栄したことと無関係ではなかったと思われます。

順風満帆に思えたベーゼンドルファーでしたが、子供のいなかったルドウィッヒは友人でウィーン楽友会副会長の フッテルストラッサーに1909年事業を売却しました。そうこうするうちに第1次世界大戦が勃発し、 ベーゼンドルファーホールは取り壊され、生産台数は大戦前年の434台から136台に激減、1918年にはオーストリアは降伏し、 ハプスブルグ家が支配する600年以上続いた帝政が崩壊し共和制になりました。事業を引退しホールの取り壊しを見た ルドウィッヒは1919年失意のうちに死去しました。

その後一時回復した生産台数もインフレと社会不安のため、1934年には結局年間52台にまでおちこみ、さらに追い討ちを かけるように1938年にはナチスによりドイツ第三帝国(ナチスは過去の栄光と自らを結びつけるため神聖ローマ帝国を 第一帝国、ドイツ帝国を第二帝国、自らの国家を第三帝国と称したといわれる。)に併合され、オーストリアの名は地図上 から抹殺されてしまいました

1939年には第二次世界大戦勃発、それでも1941年は生産台数143台でしたが、ドイツの敗戦色の濃くなった1944年には ピアノ製造用の木材置き場の爆撃をうけます。さらに1945年西側連合軍はフランス国境をこえラインラント (ドイツ領の非武装地域)へ、東側の50万人のソ連軍はポーランド国境のオーデル・ナイセを越えてドイツへ進撃したほか、 オーストリア・チェコスロバキアにも進撃し、ウィーン・プラハを陥落させました。

それで1945年4月にウィーンの街は14日間にわたり猛烈な戦火の洗礼をうけ、ウィーンのシンボルである セント・ステファン寺院(写真)も炎に包まれました。

ピアノ工場は爆撃で破壊され、楽友協会のショールームでは兵士たちが焚き火で暖を取っておりましたが、なんとそれは ピアノを燃やしていたのでした。会社の技術者達は、捕らえられるか、あるいは近づく前線から田舎へ避難するしか ありませんでした。死者1万人(1938−1945)、崩壊・焼失した家屋21,000戸、そして瓦礫の山。 戦争がウィーンに残したものでした。

1945年米、英、仏、ソ連の分割占領から1955年に独立しオーストリアは永世中立国宣言をしました。
それで、1946年から1947年に数人の技術者で、11台製造が可能となり、1950年から1966年にはおよそ年間100台生産が出来、 五大陸へ出荷されるようになりました。

しかし経営難は如何ともしがたく、1966年にはアメリカ、インディアナ州の家具製造会社で先祖がウィーン出身の社長の 経営するキンボールインターナショナルの傘下に入りました。その後2002年には再びオーストリアの銀行グループが経営権 を取得し、1918年ハプスブルグ家崩壊のあと、困難を極めた会社もやっと名実ともにオーストリアに復帰できました。

前回のベヒシュタインといい今回のベーゼンドルファーといい、戦争による傷跡は深く、人の命、財産、芸術、文化を簡単 に破壊してしまいます。戦後60年を経た現在なお世界各地で起こっている紛争を見るにつけ、私たちの知らないところで、 私たちにとって、いや人類にとって大切なものが失われているのではと思うと、平和を願わずにはいられません。