趣味としてのピアノ(その26)「配列と音律」

山本眼科 山本起義

(2016年9月岸和田市医師会広報掲載)

ピアノの鍵盤配列はどうしてあんなふうに(上図)なっているのか、 しばしば聞かれることですが、答えはそう簡単ではありません。今回は鍵盤楽器の歴史、音階そして音律の歴史からその回答にせまってみたいと思います。

T.鍵盤楽器の歴史からみる鍵盤配列

鍵盤楽器で有名なのは、オルガンですが、その歴史は古くて、獨協大学ドイツ学の木村佐千子氏の論文「ドイツ語圏の鍵盤音楽」によれば、 アレクサンドリアの技師クテシビオスKtesibios(BC.283-246)が紀元前3世紀ごろに発明した水オルガン「ヒュドラウリスhydraulis」までさかのぼります。

ヒュドラウリスは左図のように、ピストンで空気を空気室に送ると、空気室に圧縮された空気がたまります。その上の箱と空気室とはつながっており、 上の箱にはいくつかの笛が連なっていて、此処の笛と箱とは音栓で遮断されていて、音栓を開放すると、水圧で圧縮された空気が笛に流れ出して音が鳴るしくみです。

紀元前3世紀にはロードス島のディオニソス神殿にも備えられ、その後、紀元前のうちにローマ帝国に伝わり、 ローマ皇帝アウグストゥスを迎える際にはオルガンが奏さました。その後、紀元後2世紀になると、空気の圧力のみで演奏するものがあらわれ、 ハンガリーで出土した228年製のオルガンは空気式にもかかわらず、ヒュドラ(hydra)とよばれており、ヒュドラウリスが当時はオルガンを指す一般名称となっていました。

ドイツ語圏にオルガンがもたらされた最古の記録は812年、ビザンツ帝国からアーヘンのカール大帝(747−814)のもとに訪れた使者がオルガンを持参し 、表敬演奏を行ったとあります。ルードヴィヒT世(778−840)は826年、ゲオルギウスというヴェネツィアのオルガンを建造できる聖職者を召し抱えて、 初めてドイツ語圏でオルガンを建造したといわれています。

現在では、パイプオルガンは教会音楽のイメージですが、当初教会では楽器の使用を禁じていました。しかし、4世紀ごろから10世紀にかけて徐々に教会で普及してゆきました。 しかし、10世紀までの音域は2オクターブ以下で全音階的(黒鍵なし)でした。その後13世紀頃には教会で本格的に活用され、足鍵盤を備えたオルガン建造されるようになったのは、 14世紀頃、手鍵盤が2段あるものが作られるようになったのは15世紀からでした。

 上は(仮名)聖バソロミュー(1475−1510)という氏名不詳作者の祭壇画とその一部の拡大したものです。「ポルタティーフオルガン(ポータブルオルガン)」といわれ。 右手で鍵盤、左手で「ふいご」をふくタイプで、中世に良くもちいられました。

上はベルギーのヘントのシント・バーフ大聖堂にある祭壇画Jan van Eyck (1390年頃?1441)作のものの一部拡大です。オルガンを弾いている絵画には、 奏楽の天使 『ヨハネの黙示録」5:11−15より天使たちとすべての生き物が「神の子羊」を歌い、24人の長老たちが子羊の前にひれ伏した。 と解説されています。現在の黒鍵と白鍵の配列がみてとれます。 初期のオルガンには、半音鍵(いわゆる黒鍵)をすべては備えていないものが多かったのですが、しかし、ハルバーシュタットのオルガン(1361 年完成)は、 半音鍵をすべて備えた最初期の例とされています。つまり現在の鍵盤配列がほぼ完成したのは、1361年ごろと言えると思います。

U.音律の歴史からみる鍵盤配列

ピアノはバルトロメオ・クリストフォリ(1655−1731)が1700年にチェンバロをもとにして発明したものです。そのチェンバロの鍵盤配列はオルガンがもとになっており、 鍵盤配列は1361年ごろと推定しましたが、鍵盤配列と音階は密接な関係がありますので、11世紀のグイードの階名唱法から1261年の鍵盤配列の確定と音名の確定まで、 そして、その後から1636年の倍音の発見と平均律、さらに、1850年の平均律が一般的になるまでの歴史的経緯を考えてみたいと思います。

グイード・ダレッツオの功績

11世紀の音楽理論家グィード・ダレッツオ(Guido d'Arezzo 991年または992年− 1050年)は、現在用いられる楽譜記譜法の原型を考案しました。また、Micrologusと呼ばれる、 中世の音楽史上に広く受け入れられた論文を発表したことでも知られています。長音階に語呂合わせの名前をつける「階名唱法」は、グイードが著した『アンティフォナリウム序説』 によって広められましたが、それは、「聖ヨハネ賛歌」は、第1節から第6節まで、その節の最初の音はそれぞれC-D-E-F-G-Aの音になっており、それぞれの冒頭から「Ut Re Mi Fa Sol La」 という階名が作られ、現在の「ドレミ唱法」の原型となっています。ただし、グィードが「ドレミ唱法」を考えだした頃は、「ut,re,mi,fa,sol,la」という 6音音列(ヘクサコルド)と言われるもので、「シ」がありませんでした。

このドレミ唱法に「シ」が入ったのは1600年頃、「ウト」は発音しにくいため「主」を示すDominusのDoに変更され「ド」と呼び変えたのは1670年ごろと言われています。

音階に影響した「シ」の問題

11世紀のグィードの「ドレミ唱法」から1600年頃までの実に600年間も「シ」の地位は不安定でした。白鍵で「ドレミファソラ」と6音までで、 第7音目の「シ」を抜くとピタゴラス音律では「ラ」から「ド」までは全音以上に間隔が空き、「シ」を入れると「ラとシ」あるいは「シとド」の間隔が半音より短いものになるため、 「シ」は「帯に短し、タスキに長し」ということで不安定な地位に甘んじていたのです。

吉松隆著『調性で読み解くクラシック』(yamaha music media corporation) によれば(左図)、ラとシの中途半端な音程は、低い「シ」はまるいb、高い「シ」は四角いbで区別されており、その結果ドイツでは低い「シ」はBという音名、高い「シ」はHという音名になりました。 一方、英国では、戦争に明け暮れて、ピューリタン革命時代には、偶像崇拝禁止や歌舞音曲の禁止などが重なり、音楽的には大陸と比べて後進国になってしまいました。

ピューリタン革命(1638−1660)は王政復古により失敗におわりますが、この間の音楽の遅れを取り戻そうと、大陸から英国へ音楽家を招聘しましたが、 そのころには「シ」の問題はほぼ確立されていたので、英国では「ラシドレ・・・」は「AHCD」ではなく、自然な順序の音名の「ABCD」を採用したと言われ、 現在でもドイツ音名Bは英音名B♭であり、ドイツ音名Hは英音名Bという厄介な問題が存在しているのです。

さらに申し上げれば、現在私たちが用いている楽譜の記号のシャープ(♯)もフラット(♭)も、元は同じ音名のbから由来していることは興味深いことです。(左図)


音階と鍵盤配列

先に述べましたとおり、13世紀から14世紀にわたって盛んにオルガンの建造がなされ、初期のオルガンの不完全な半音鍵盤から試行錯誤ののち、 完全な半音階を備えた鍵盤のオルガンは1361年にハルバーシュタットに初めて建造されました。つまり、1361年頃が現在の鍵盤配列の完成だったと考えるのが妥当だと思われるのです。

嬰変の記号も、半音階的変化の表現の必要性から13〜14世紀ごろに起こり当時はMusica Ficta〈虚構の音楽〉と呼ばれていたそうですが、15世紀にはその記号も確立されました。 1361年にハルバーシュタットのオルガンからさらに275年にわたって試行錯誤があり、1636年には倍音という概念が出て、丁度同じころに平均律という概念ができます。

ところが、この平均律が実用化され一般的になるのはもっと後で、1850年ごろまで待たなければなりませんでした。

平均律が一般に広がるのに時間がかかったのは何故か

ハワード・グッドール著「音楽史を変えた五つの発明」松村哲哉訳(2011年)によれば、 平均律の考え方はシンプルで強力だが、実際に音を均等に調律するのは高度な技術を要し、1580年から1600年にかけて、フランドル出身の数学者・技術者シモン・ステヴィンは鍵盤楽器を平均律に調律 するための正確な数値を算出することに取り組んだものの、当時は、この数値に合わせて楽器を調律する技術はありませんでした。つまり、理論はありましたが、実践は難しかったのです。

古典調律

調律の専門家ではないので、私も完全に理解しているわけではありませんが、アレクサンダー・ジョン・エリスは、ロバート・ホルフォード・マクドウォール・ボサンケットの提案により、 ガスパール・ド・プロニーが1830年代に開発した音響対数値の小数半音システムに基づいて次の測定法を作り上げました。

平均律の半音の間隔は100セントと定義され、オクターヴ(2つの音の周波数比が2:1)は12半音であり、1200セントとなります。

これを使って説明しますと、12平均律においてはA♭とG♯のような異名同音は実際に全く同じ音なのですが、ピタゴラス音律で調律すると、 このA♭とG♯には約23.46セント≒1/4半音の差が生じます。この差を「ピタゴラスコンマ」と呼びます。

紀元前500年ごろ、ピタゴラス(学派)は、この世に無理数はないという、一種の宗教観ともいえる説を唱え、完全5度を12回繰り返すと、元の音に戻ると信じて疑わなかった ピタゴラスの考えはピタゴラス音律(上図)となり、一オクターブに12音を配列させる発想のもとになったのですが、ピタゴラス音律では、 半音階を構成する際に、A♭を省いてE♭からG♯までの12音を用いると、G♯からE♭への五度音程は、3:2の比率による純正な完全五度(約701.96セント)よりピタゴラスコンマ分狭い音程(約678.49セント)になります。

この音程の外れた五度による和音は、顕著なうなりを生じるため、狼の吠声に例えてウルフの五度(en:Wolf interval)と呼ばれており、この純正音律(ピタゴラス音律)のウルフの五度の耳障さは、かなりのものでした。

しかし、一オクターブを均等に分ける平均律で調律することが、そう簡単ではありませんでしたので、純正律や中全音率(ミーントーン)のあとに出た、平均律はあまり利用されることなく、 ヴェルクマイスター音律とかキルンベルガー音律などが考案されていました。転調もシャープ3個とかフラット3個とか程度だったので、支障はなかったのだと思います。

その結果、24の全ての調性で作曲するという発想は当時の作曲家にはなかったのです。

ねじの技術革新と平均律

ルネッサンス期にあたる1500年頃には、レオナルド・ダ・ビンチによってねじ部品を使った様々な装置が製作され、16世紀半ばになると、ねじは様々な場面で使われるようになりました。

1760年ミッドランド地方のジョブとウイリアムスのワイアット兄弟がねじの製造効率を上げ、1762年ヨークシャで生まれロンドンで精密機械を作っていたジェシー・ラムスデンはより精密な旋盤で 高精度のねじを作るようになりました。この、ワイアット兄弟と、ラムスデンと同じ時期に、英国のヘンリー・モーズリー(Henry Maudslay 1771-1831)は、さらに改良した鉄鋼製のねじ切り用旋盤を開発し、 1800年に極めて精度が高い基準ねじの製造を行いました。

その結果、ネジを個々此処に削って作って合わせていたのが、この、1800年のヘンリー・モーズリーの精密な金属旋盤による技術革新により、ネジを大量生産しても、ボルトとナットとがどれでも合うようになりました。

この技術革新からピアノを正確に平均律でチューニングするピンが初めて出来たのでした。

バッハの平均律クラヴィーア曲集は平均律で演奏されたのか

1636年には倍音の発見があり、そのときに多分、一オクターブを均等に分ける平均律が考案されました。

しかし、この1636年から1753年のベルヌーイの周波数の発見により音は周波数で表されることがわかるまでの117年間は、音は比であらわされていて、耳で聴いて「うなりの有無」で調律されており、1度、4度、5度、8度という完全音程は、 純正律でうなりの出ない音という事で出てきた言葉です。

バッハは「良く調整されたクラビーアのための曲集」と何故書いたのか

倍音の発見された1636年にはすでに平均律は考えられており、さらに1753年に音を周波数で表すことがベルヌーイにより発見され、周波数で計算すれば平均律で調律可能なところまではたどり着いていました。

バッハ(1685-1750)の時代には、周波数の知見はなく、音は比率で計算されていました。おまけに、現在のピアノのような頑丈な楽器ではなかったので実用性のある平均律の調律は出来ませんでした。 ところが、17世紀になると半音階や転調が好んで作曲に使われるようになります。その最たるものがバッハで、24の調性を全て使用し、作曲した曲集を作り世に問うたのでした。

ただ、当時の調律法は現在古典調律と言われるものが趨勢で、おまけに、バッハの作曲した24の調性の鍵盤楽器の曲はチェンバロとかクラビコード用でした。 これらの鍵盤楽器はギターやヴァイオリンのように自分で調律する楽器でしたので、演奏途中でも、たびたび狂うので、調律し直さなければならなかったのです。

当時は平均律が実用性のない調律だったので、「ウルフの五度」のような「うなり」を解決するために、中全音律(ミーントーン)とか、ベェルグマイスター音律、キルンベルガ―音律が使われていました。 チェンバロとかクラビコードは、今でも昔のままで、ギターとかヴァイオリンと同じく、しょっちゅう演奏途中でチューニングをし直さなければならない楽器です。

「良く調性されたクラビーアのための曲集”Das wohltemperierte Klavier”」というバッハの記述は、「ウルフの5度」のような不快は音が出ないようにうまく調律したチェンバロ(あるいはクラビコード)で演奏するように、 と言いたかったのだと思います。当時に、「平均律クラヴィーア曲集」は、平均律に調律できる実用性のある楽器がなかったことを考えれば、多分平均律で演奏されていたわけではないといえるのです。

日本では、24のすべての調性が含まれているのできっと「平均律」で演奏されたに違いない、とのことで「平均律クラヴィーア曲集」と訳されたので、それを今更変えることは困難です。 バッハは平均律で調律できれば「ウルフの5度」は解決できるのに、と思っていたかもしれませんが、当時の技術では本当に平均律で演奏されたかどうかは疑問です。

平均律時代の到来

英国のヘンリー・モーズリー(Henry Maudslay 1771-1831)が、1800年に極めて精度が高い基準ねじの製造を行った結果、この正確なねじと正確なチューニングピンを置くピンブロックの存在が、 ピアノを平均律に調律することが可能になると、1840年代に当時のピアノメーカーのトップ、ロンドンのジョン・ブロードウッド社は、製造するピアノに平均律で調律することにしました。

ピアノを平均律で正確に大量に調律することを可能になったためです。その結果ピアノを平均律に調律することが一気にひろまりました。

ヨーロッパでは1850年頃に、平均律が優勢になっていったもう一つの功績は、19世紀後半にウィーンで発明されたアコーディオンによるとことが大きく、他の鍵盤楽器が普及しなかった地域にも、

その携帯性により広く行き渡りました。アコーディオンは工場で一度音の高さを設定するとその後調律し直す必要がなく音も大きいので、各地に昔から伝わるさまざまな音律はアコーディオンが奏でる平均律に駆逐されていった経緯があります。

鍵盤配列のまとめ

1)最初の鍵盤楽器はオルガンで、紀元前3世紀頃の「水オルガン」から始まるりますが、現在の鍵盤形式になるまでには紆余曲折がありました。

2)4世紀から10世紀の教会オルガンの鍵盤は全音階的で単音聖歌の旋律を奏しました。

3)9世紀には和声や対位法を持つ複音楽が出始め、正確に音を書きとどめるための「ネウマ譜」が登場しました。

4)複音楽(ポリフォニー)の演奏には正確な記譜法が必要で、11世紀の音楽理論家グィード・ダレッツオ(Guido d'Arezzo 991年または992年− 1050年)は、現在用いられる楽譜記譜法の原型を考案しました。

5)楽譜を歌うために、音名ではなく調性に関係なく歌える階名で歌えるように、グィード・ダレッツオ(Guido d'Arezzo)が「聖ヨハネの賛歌」の歌詞から「ドレミ唱法」を考えだしました。

6)しかし、当時の階名には最後の「シ」がありませんでした。このドレミ唱法に「シ」が入ったのは1600年頃、「ウト」は発音しにくいため「主」を示すDominusのDoに変更され「ド」と呼び変えたのは1670年ごろと言われています。 それで、「シ」が階名の最後にできたのは「ドレミ唱法」からおよそ300年間経過してからになります。その間「シ」の地位は不安定だったので、ドイツ音名も「B」と「H」の二種類が用いられていました。

7)14世紀になった1361年頃には現在のような半音階を全て備え鍵盤をもつオルガンが出来ました。ただ、平均律はまだ考案されておらず、古典調律で調律されたオルガンでした。

8)1361年頃から、倍音が発見される1636年までは、純正音律や中全音律という古典調律で調律されていましたが、1636年ごろには平均律が考案されました。

9)しかし、平均律が考案された1636年から1840年までの間は、技術的な困難さから平均律はあまり用いられず中全音律(ミーントーン)の次はベルクマイスター音律やキルンベルガー音律という古典調律が考案されました。

10)1800年にヘンリー・モーズリー(Henry Maudslay 1771-1831)の技術革新により正確なネジが工業生産できるようになり、 このネジを用いて1840年代に当時のピアノメーカーのトップ、ロンドンのジョン・ブロードウッド社が製造するピアノに平均律を採用したことが決定打となり、平均律の調律は一気に広まりました。